こんにちは、穎才学院教務です。

今日は「あいさつは大事です」という当たり前の話です。

でも「あいさつをしない人はどんな人なのか」ということをお話するつもりなので、その点では世間であまり聞かない話かもしれません。

私は「世間であまり聞かない話」が好きなので、今日もそういう話をいたします。よろしかったら、好きな飲み物でも飲みながら、気楽にお付き合いくださいませ。

世間には「あいさつをしない人たち」がいます。そういった人たちは、「あいさつなんかするかよ、このやろー」と思ってあいさつをしていない人と、そもそもあいさつをするという発想が無い上に、他の人からあいさつされているのが「耳に入っていない人」とに分けられます。

前者は本当は「あいさつは大事だ」ということがわかっている人なので(そうじゃないといちいち「あいさつなんか、してられっかよ…」なんて思ったりしません)、気分が良いときや大事に思っている人には案外きちんとあいさつするものです。何気に良い子なのです(笑)

問題は後者です。あいさつをするという発想が無い人たちがどうして問題なのかというと、「言語の交換」という人類学的基本を軽侮しているからマズいんです。

レヴィ=ストロースは、人間のいとなみはすべて「言語使用」「親族形成」「経済活動」という3種類いずれかの「交換=コミュニケーション」に帰属していて、決してそこから出ることができない、ということを明らかにしました。(このあたりについて詳しく知りたいという方は、是非『悲しき熱帯』をお読みください。高校生にもおススメ!)

そういった人類学的起源を持つ人間のいとなみについて、「どうしてそんなことをするんですか?」とどれだけ質問しても、「それはお前が人間だからだ」という以外の答えに出会うことありません。

要は、よくわからないんだけど(←ココが大事!)何か言葉を交換したり、共同体(おウチやムラ)の間でそれを構成するメンバーをやりとりしたり、何に使うのかわからなくても(←ココ大事!)何かモノをやりとりしたりするのが人間なんだということです。

そういった私たちの「行為」の目的は「よくわからない」んです(笑)レヴィ=ストロースもそういうことを言っています。(もっとカッコいい言い方をするけど。)

ここに後から「貨幣」という記号が横は入りしてきて、私たちのそういった「行為」の目的が「貨幣の獲得・蓄積」のためと上書きされてしまうと、いっぺんに事情が変わっていまいます。

「時は貨幣であるということを忘れてはいけない。」と言ったのは、ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)です。フランクリンの言葉はさらに続きます。

「一日の労働で10シリングをもうけられる者が、散歩のためだとか、室内で懶惰に過ごすために半日を費やすとすれば、たとい娯楽のためには6ペンスしか支払わなかったとしても、それだけを勘定に入れるべきではなく、そのほかにもなお5シリングの貨幣を支出、というよりは、抛棄したのだということを考えねばならない。」

要は、「金を稼ぐために働くんだ。働ける時間を無駄にするな!」とフランクリンは言うのです。

この辺りに、私たちの価値観のゆがみの起源がうかがえます。

労働も、レヴィ=ストロースが言うとおり、「交換=コミュニケーション」に帰属する行為です。何だかわからないけど、「交換=コミュニケーション」するということ自体が楽しい、という仕掛けになっているのです。

ところが、ベンジャミン・フランクリンの辺りから、労働は「貨幣の獲得」のために行われるものだと考えられるようになったわけです。(このあたりについて詳しく知りたいという方は、是非ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をお読みください。ベンジャミン・フランクリンの話もそこに出てきます。)

そうすると、今度は労働だけでなく、他の様々な行為も「貨幣の獲得」が目的だと理解されるようになります。

「○○するのは金のため」みたいな「人間」が登場するのです。

まあ、そういう「人間」は資本主義の原理に精神をパーフェクトに適応させた(=金に魂を売った)、ある種の究極態かもしれません。

そういう「人間」にとって、「言語使用」「親族形成」「経済活動」はすべて金を稼ぐ手段です。

なら、「金にならないならしない」ということになるのは必然です。

「金にならない」という部分を「意味が無い」とか「やっても無駄」に置き換えてもかまいません。

最近、私たちが耳にする「意味が無い」「やっても無駄」というような呪詛的フレーズは、要は「金もうけにならない」という意味なのではないでしょうか。

再び、レヴィ=ストロースに戻りましょう。人間のいとなみはすべて「言語使用」「親族形成」「経済活動」という3種類いずれかの「交換=コミュニケーション」に帰属していて、決してそこから出ることができません。

「言語」の交換をしない、「親族」の交換をしない、「モノ」の交換をしないという「人間」がいるとしたら、それは人間の形をしていても、もはや人間ではありません。(だから、サリバン先生は身命を賭してヘレン・ケラーに言葉を教えたのです。)

あいさつは「言語」の交換です。あいさつをしない人が言語的交換を一切しない「人間」だとは言えません。でも、部分的に言語的交換を放棄した人が交換の全面的放棄に向かわないと言い切れるわけでもありません。

だから、あいさつは大切なんです。私たちがこれからもきちんと人間であるために。

穎才学院では、今日もやってきた子供たちがあいさつをしています。あいさつの声が小さい子も、大きい子もいます。目でニコリとする人もいます。そういった仕方はひとまずどうでもいいのです。きちんと他の人と言語的記号を交換できる。そういった方でこれからもいてほしいなと思います。

私たちにとって、あいさつは大切です。