「私たちの代わりはいくらでもいるの。会社は私たちをクビにするなんて何とも思っていないのよ。」

NHK連続テレビ小説『ととねえちゃん』、「常子、プロポーズされる」と題する第10週目の放送がありました。

火曜日は常子が勤める会社でタイピストの同僚女性がクビを言い渡されるという場面が最後でした。

社内で既婚の男性社員との交際を疑われた常子の同僚は、即日退社することになります。クビを言い渡されたのです。

物語中の「交際」や「解雇」の法的な当否はさておくとして、

女性タイピストたちが勤める部屋(「浄書室」と言います)のリーダー格である女性がいった「私たちの代わりはいくらでもいるの。会社は私たちをクビにするなんて何とも思っていないのよ。」という言葉は、当時の職業婦人たちが置かれていた立場を端的に言い当てているのだとわかります。

とはいえ、実際それは職業婦人たちにとどまるものではなかったはずです。当時の男性労働者もきっとそんなことを言っていたでしょう。

そして、カンが良いみなさんはきっともうお気づきですよね。

そうです。それは今でも往々にしてあることです。

「私たちの代わりはいくらでもいるの。会社は私たちをクビにするなんて何とも思っていないのよ。」とグチをこぼしているOLは銀座や有楽町のカフェレストランに行けば、いくらでも見つかりそうです。

「おまえの変わりはいくらでもいる。やめてもらっていいんだぞ。」と上司に脅されて、挙句の果てには「これだから『ゆとり』は…」と侮蔑される。そういう思いをしているサラリーマンはたくさんいると思います。

人間はその固有性を発揮するときに膨大なエネルギーを発します。

なぜだがわからないけれど、そういう心身の作りになっている。

だから、反対に固有性を否定されたり、奪われたりするとひどく心身が傷つく。

他の人と同じことを他の人と同じ仕方でする、というのは私たちの心身にひどいダメージを与えます。

だから私たちは他の人と違うことをしようとしたり、他の人と同じことを自分にしかできない仕方でしようとしたりするのです。

それに対して労働市場では、労働者は「いくらでも替えが効く」ということにしておいた方が使用者は大きい利益を上げられる。

「いくらでも替えが効く」労働者の雇用条件は極限まで切り下げられていくからです。

男性・女性どちらかしか労働できないより、両性とも労働できる方が雇用条件は切り下げられる。

固有の言語を母語とする人しか労働できないより、どんな言語を母語とする人でも労働できる方が雇用条件は切り下げられる。

人間しか労働できないより、人間もロボットも労働できる方が雇用条件は切り下げられる。

労働市場において、使用者の利益を最大化することだけを目的にすると、労働者は女性も男性も、出身に関わらず英語でコミュニケーションすることを求められ、ロボットといっしょに労働することを要求される。

そういうディストピア的近未来が予測されるのです。

でも、私たちの社会はそうならないでしょう。

少なくとも、私たちの社会のどこかには私たちの「かけがえのなさ」が大切にされるエリアが残されるはずです。

『ととねえちゃん』の常子がそうするように、「あなたにしかできないこと」「あなたにしかできない仕方」を大切にする人たちが必ず出て来ます。

若者たちの中にすでにそういう人たちがあらわれはじめています。

一番敏感なのは就職を控えた若者たちである。
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として労働市場に投じるほど、雇用条件が劣化するということに気づき始めた。
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
あまりに雇用条件を引き下げすぎたせいで、就活が過剰にストレスフルなものになり、就活を通じて人間的成長どころか心身に病を得る者が増えたせいで、労働市場から若者たちが撤収するという動きはすでに始まっている。
「市場からの撤収」は就活に限らず、あらゆるセクターでこれから加速してゆくだろう。
これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々にゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。
(内田樹「市場からの撤収」による)

「内田樹の研究室」の記事をご参照ください。

グロバールなレベルでは、少なくとももう暫く、グローバル主義的経済あるいは新自由主義的経済が主流となるでしょう。しかし、既にそこにおいてさえ綻びが見られます。

IMFが新自由主義の経済的過失を指摘

私たちの社会は、法隆寺の阿修羅像のようにいくつかの「顔」を持っています。

ひとつは「おまえなんかいくらでも替えが効く」ということを私たちに言い募る悪魔の顔。

ひとつは「あたにはあなたにしかできないことがある」「あなたにしかできない仕方がある」ということを大切にしてくれる優しい顔。

もうひとつは、その間をとった普通の顔です。

私たちの社会がこれからどんな顔を私たちに見せるのか、それは私たちひとりひとりの振舞いにかかっています。

みなさんはどんな世の中を望みますか?

私は「あたにはあなたにしかできないことがある」「あなたにしかできない仕方がある」ということが大切にされる社会を望みます。小さくとも、そういうことが大切にされるエリアを維持したい。

そして、それはたぶん『ととねえちゃん』の常子と同じ考えです。

きっと常子の仕方と違う仕方を私はしているのだろうけれども。