成績が上がらない理由

こんにちは、穎才学院教務です。大型連休が終わりました。板橋区では今週から早速1学期の定期テストという学校もあります。今月は大学受験生向けの模擬試験も実施されますから、なんだかたくさん試験を受けているなあと感じる生徒たちも多いことでしょう。体調を崩さないよう、健やかにがんばってくださることを願います。

さて、5月に試験を受けてその結果が返却されてから、その結果が芳しくないことに狼狽する方たちがおられます。

ビジネスマインドで塾・予備校を経営している人たちにとっては、そういう人たちを言葉巧みに勧誘し、自社教材や講座を購入・受講してもらう良いチャンスかもしれません。

まあ、夏が近くなるとダイエット広告が増えるのと同じで、こういったビジネスマインドは特に良いものでも悪いものでもありません。

そういことをしたい方たちは、お好きにどうぞ~という感じですね。

はっきりと申し上げますと、試験の結果が悪かったことに慌てふためくというのは、その人が日常的に甘い物の見方をしているということです。少なくとも勉強するということを舐めておられる。

ひごろから勉強していないなら、試験で良いスコアなど取れるはずがありません。だから、ひごろから勉強していないということを熟知している人は、成績が悪いことに驚いたりするはずがない。

やっぱりね、てへっ

というくらいです。

子供や生徒の試験結果が悪かったことについて、それを叱責する親や教師がいますが、そのような低調な成績となることについて親自身・教師自身が思いもよらなかったというなら、まずそういった人たちはご自信の不明を恥じるべきです。

子供や生徒が勉強していないという事実に試験結果が出るまで気が付かなかった、というご自身の洞察力不足を棚に上げてはいけません。

あるいは、子供や生徒が勉強していないことに実は気付いていながら、それを見て見ぬふりをしていたということの罪深さを悔い改めないわけにはいきません。

大人なら、成績が悪いのを子供や生徒の責任とするより、テストのスコアが低調なのを学校や塾、家庭のせいにするより、各々が自分自身の日常を省みるべきです。

では、子供や生徒の成績が悪いのはどうしてか。

成績が悪いのは、勉強が出来ていないから。

そして、勉強しないのはどうしてか。

それは勉強を舐めているから。

これに尽きます。

もちろん、勉強するということは「学校に行く」「塾に行く」「机に向かう」ということと同義ではありません。

学校は勉強をするだけのところではないし、学校や塾で授業を受けていても勉強しないなんてことは子供でもできるくらい簡単なことだし、机に向かっているけど実は勉強していないという経験は誰でにでも身に覚えがあるでしょう。

そもそも「学校・塾に行っているのに、どうして成績が上がらないんだ」とか、「授業を受けているのになぜ点数が伸びないんだ」とか、「あれだけたくさん勉強机に向かっているのに、うちの子はどうして成績が伸びないのかしら」とかいう述べ方は、没論理に過ぎません。

でも、こういう没論理を平然と口にする人は、結構多いのです。

そういった人たちは、たいてい勉強するということを舐めている。申し訳ないけど、舐めている。

勉強するということが、自身に先行する膨大な知の体系に対するのどれほどの畏怖と敬意に基づくものなのか、わかっていらっしゃらない。あるいは、勉強するのにそういった心構えが欠かせないということについて、思いもいたらない。

これだけ時間をかけたのに、どうして成績が上がらないんだろう。

これだけお金を払ったのに、どうして点数が伸びないんだろう。

そう思っている。

「頑張ったのに、成績が伸びない」ことについて、首を捻ったり、怒ったりする人にとって、頑張るというのはたいていの場合「時間をかける」「お金をはらう」ということです。

そうじゃないんです。国語・英語にしても、算数・数学にしても、それは私たちが生まれる前から存在する、大きな大きなシステム・仕組みなんです。だから、国語や英語を勉強するということは、そういう大きな大きなシステムと自分の関係をいちいち確認していくという、それはそれは手間ひまのかかる作業なんです。算数・数学を勉強するということは、自然(あるいは自然科学)という巨大な知の体系を取り扱う手段として、人類が築き上げてきた物の数え方や形や概念の捉え方をひとつひとつ自分で理解していくという果てしの無い作業なんです。

「頑張って、成績が上がる」なら、頑張るというのは、どこまでいっても終わりの来ない「学びの道」を歩きながら、その学びのひとつひとつにきちんと手間をかけ続ける、というようなことです。

終わりのない物語を読み続けることが楽しいと感じられるように、プラモデルやパズルをひとつ作り上げてはまた次のものに取り組むということを続けるのが人によっては楽しくて仕方がないように、

果てしのないもの、取り扱いきれないほど巨大なものに触れるのは、私たちの脳にとって、この上のない喜びと成りえるものです。

勉強するというのは、そういうことの喜びに触れるということでもあります。

私たちは、みなさんひとりひとりが、そういった喜びと出会い続けることを望みます。

その方が何だか楽しいと思いませんか?

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